選定者私物の本

案内文02

「愛しいひとたち、声に出して読みたい物語」 ライター・小窪瑞穂

『ムーンライト・シャドウ』吉本ばなな

20数年前の記憶をたどると、「ムーンライト・シャドウ」はわたしにとって、切なくて不思議で感動的なお話だった。当時のわたしには体験したことのない気持ちや状況が書かれていたけれど、想像で追体験し、すっかり感じ入った。今回読み返したとき、わたしは気がついたら朗読していた。なんとなく声に出して読みはじめたら止まらなくなって、最後まで朗読したのだ。はっとなった表現を書き留める、ということはよくするし、この作品にもそんな箇所は本当にたくさんあるのだが、たぶん、声に出して最後まで朗読した小説ははじめてだと思う。


最初に読んでからずいぶん時間がたち、大切な存在をなくしたことのある今のわたしには、わかりすぎる気持ちや状況ばかりになっていて、読みながら胸が詰まった。そして、子どもの頃不思議だと感じたところは、まったく不思議ではなくなっていた。不思議どころか、普通のこととしてすっと入ってきた。うららのような人に会うこともあるし、なくなった魂に会えることもある。さつきが毎朝走ることも、柊がセーラー服を着ることも、わかりすぎた。わたしたちの人生にはときおり、きちんと生活をしようとしたり、日々の雑事を大切にしようとしたりすることでしか、やり過ごせない時間が襲ってくる。自分の気持ちをしゃんとさせるために、なんとかバランスを保つために、何かを、それが他人にとってはかなり可笑しなことであっても、自分に課さなければならないことがある。


ばなな作品に登場する人物たち、彼らの行動や言葉たちは、いつも魅力的だ。読んでいて何度もくすっとしてしまうし、この人はなんて愛らしいんだ、と思う。登場人物に対して愛しい気持ちをもちつつ、自分も物語の中にいて、物語を読んでいる、というよりは、彼らのいる世界を一緒に眺めているような感覚になる。そして、読み終える頃には、なんだか名残惜しく、そこから離れたくないような、切ない気持ちになる。それは、夢のなかでそれが夢だとわかっていて、目を覚ましたくない、覚ますまいと思うことに似ている。  わたしは、十代の頃に彼女の本を読んで、ものごとの事情やひとの気持ちを推し量るセンスを身につけたような気がする。ものごとやひとの、どんなところを見て、どういうところに心を動かすべきか、誰に教わったのかといったら、自分が読んできた物語のなかのひとたちだと思う。


さつきはどんな大人になったのだろう。あるいは、柊は。物語が、永遠に続いていたとしたら。この物語にふたたび出会い、自分のなかに流れた時間を知り、自分を知った。再読の喜びも知った。あの頃のわたしといまのわたしの間に横たわる貴い物語。たくさんのひとに、このような物語が存在することを心から願う。

あらすじ/『ムーンライト・シャドウ』吉本ばなな 福武書店 1998年

高校を卒業したばかりの主人公・さつきは、交通事故で恋人を失う。恋人の弟もその事故で彼女を亡くした。耐え難い喪失感のなかにあったさつきと柊は、その地で起きる「七夕現象」でそれぞれ愛しい人の幻に出会う。人が絶望の淵から這い上がるさまを描いた再生の物語。

案内者プロフィール

小窪瑞穂。1977年生、フリーランスライター。2000年より音楽記事やインタビューなどを中心に活動していたが、2012年渡豪後はジャンルを限らず執筆、昨年より翻訳もはじめる。好きなのは読むこと、書くこと、映画・音楽観賞。最近興味があるのは、Energy MedicineとAstrology。

書籍情報

『キッチン』(「1988年1月発刊。3作目にムーンライト・シャドウ」を収録) 現在、角川文庫から販売。
角川文庫 1998年発刊
日英バイリンガル版『ムーンライト・シャドウ』が2003年に朝日出版社から発刊。