選定者私物の本

案内文01

「ひっかき傷を残すもの」編集者・鈴木朝子

選定者

『鉄輪』藤原新也

海岸線に沿って無数の提灯が並んで、暗いはずの砂浜がその夜だけ明るく照らされていた。親戚のおばあちゃんの初盆のために帰郷する祖母にくっついて、海辺の町を訪れた時のこと。人の生死にまつわる儀式への意識は、都会にいると希薄になる。住んでいる場所はとくべつ都会でもないけれど田舎ではないし、毎日、1日の半分近くは東京にいる。

砂浜に座って、遠い親戚と一緒に魚を食べたりビールを飲んだりして、犬と遊んだり、海に入ったりした。親戚の誰かとまちがえられて、知らない人に話しかけられたりもした。何度も訪れた場所ではないし、親戚の数が多すぎて誰が自分にとっての何に当たるのかもあまり把握できていないまま、それでもこの海辺の町の人々の血と私の血は確かにつながっていて、そのことをしっかり感じていた。そうして砂浜に座っていたあの時、人が生きて死んでいくことに対して、頭で考えたり心で思ったりするのではなく、手のひらで触っている感覚があった。

著者が少年時代を過ごした「鉄輪」(かんなわ)という町は、その祖母の故郷から近い場所にある。有名な温泉街の旅館だった実家の没落とともにさびれて鄙びた鉄輪の町に移った時、著者は高校生だった。その時期のことを書いたのがこの『鉄輪』で、文中の「まだ何も手にしていない者の不安と底なしの自由」という言葉が読後、ひっかき傷のように心に残った。

藤原新也さんの本を読むことの醍醐味は、物事に「触ってみる」ことができるところだと思う。その本の多くにおいて、端正な文章が続くページのあいまに写真のページがたびたび挟まれる。それが何を写した写真であるかの説明はなく、どんな心象風景であるかも書かれない。著者の書いた文章と、著者の写した写真が、ただ交互に感覚を刺激してくる。その文章と写真たちに時に引っかかれ、時に包まれ、時にどこか深い穴のようなところにすとんと落とされたりしながら、結局は自分が生かされているのだということへの圧倒的な実感を、圧倒的な優しさとともに受け取ることになる。

あらすじ/『鉄輪』藤原新也 2000年

著者がかつて住んだ鉄輪温泉地(大分県別府市)を舞台に、10代の少年の心象風景を描いた自伝小説。著者の実家は、福岡県の門司港にあった大きな旅館だった。商売に失敗した父について、家族は各地を転々とすることになる。裕福な生活から一変、小さな温泉地で過ごした昭和30年代のことが、31の写真とエッセイで綴られる。

案内者プロフィール

鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。

鉄輪

書籍情報

『鉄輪』(2000年4月発刊)
2018年現在、絶版。古書店やAmazonマーケットプレイスなどで購入可能。