選定者私物の本

案内文01

「旅と本について思うこと」
建築家・磯田和明

選定者

『旅する力』沢木耕太郎

高校生活を終えた頃に、新しく二つのことを始めました。
ひとつは旅に出ること、もうひとつは本を読むこと。
たまたま興味を持った時期が近かったこともあり、この二つにはなんとなく似たような印象を持っています。旅は水平方向へ、本は垂直方向へと、未知のことを求めて好奇心を広げていくイメージでしょうか。

その頃から今も続けている本の読み方があります。
それは旅の途上でその地にまつわる本を読むことです。
例えば、グランドキャニオンに向かう車中で『オン・ザ・ロード』、メコン河の船上で『ラマン』、アーメダバードへの夜行列車で『インド夜想曲』、ブラジリアに向けた機上で『悲しき熱帯』といったように。

子どもの頃は本を読むことが苦手でした。それは今思うと、本の中の世界がうまく想像できなかったからかもしれません。そこで試みてみたのがこの読み方です。その本が書かれた風景のなかに身を置き、その街の光や音や匂いを感じながら本を読む。そうすることで本のなかに込められたものに気づければと思い、想像を膨らませていました。そして、その本を手掛かりにして、場所や時間を越えたところにまで想いを馳せてみる。そのように本の中の世界と外の世界を関係づけるように意識して読書を重ねていると、だんだんと本を読めるようになってきました。

本は読む環境によって印象が変わるような気がします。場所の違いに限らず、季節や天候、その日の気分によっても、同じ本の印象が変わります。そう考えると、旅で本を読むということは、二度と無いとても貴重な時間のようにも思えます。

そんな私が初めて海外に旅立つときに携行した本は『深夜特急』でした。そして、著者のその若い頃の旅を振り返って書かれた本が『旅する力』です。この本を読みながら、私は自分自身の旅を振り返ることになりました。その個人的な体験と重ねて、この本をご案内できればと思います。


旅に出る前にはあまり計画を立てないようにしています。
それは、初めて出会う瞬間を大切にしたいと思うからです。不十分で不自由な思い込みをなるべく持たずに、ただ自然にその場に立ってみる。そこで、いろいろな人やものに触れ、見て、聞いて、味わい、考える。事前にあれこれ考えずに、まずは旅に出てしまうのが良いと思っています。

そのことを、この本のなかでは「未経験という財産」と呼んでいます。
「経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということである」
旅に出ることや本を読むことは、少なからず自分を変えることになります。それはその前の自分には戻れないということも意味します。
「旅をすることは、何かを得ると同時に何かを失うことでもある」
本書の中で語られるこの認識を心に留めて、知る前の自分というものも大切にし、旅や本に向かう瞬間に少し緊張感を持ってみてもいいかもしれません。

旅では必ず思ってもみない事が起こります。
それをどう楽しむかが旅の全てであるような気もします。例えば些細な個人的体験をひとつ。

初めての旅の最初の地、チューリッヒの街に降りた夜、地図を見ながら下を向いて宿を目指す私は"Look up!"と声をかけられました。振り返ると、"Nice moon!"と夜空を指さす街のおばさん。日本を離れて感傷的になっていたのかもしれませんが、そのとき初めて月の美しさに気づいたように思います。そのときのような偶然だけれど決定的であるようなことに出会いたくて、その後も旅をしているような気がします。本を読むことにも、それと似たようなことを求めているのかもしれません。
思えば『深夜特急』とは、そうした偶然の出来事をどのように感受したかという個人的な体験を記録した紀行文学であったように思います。

旅で何より大事にした方が良いと思うことは、「旅に教科書はない」という著者の実感です。
ましてやここで語られているのは45年前の旅。今の旅とはあらゆることが異なるでしょう。
それでも今なお、この旅はとても魅力的に思えます。それはなぜなのかを自分自身の旅の途上で考えてみるのもおもしろいかもしれません。

「あとがき」にある、小学生の男の子、歯科医の男性、仕事を退職した女性とのサイン会でのエピソードはどれも素敵です。旅の体験は旅をする人の数だけあるという当たり前のことが、とても感慨深く感じられます。本書で語られている数々の認識は、その人ならではの旅の体験と重ね合わせられることによって、より意味を持つように思います。

『深夜特急』と『旅する力』は、旅に出る全ての人に向けて、この言葉で締めくくられています。
「恐れずに。しかし、気をつけて」

あらすじ/『旅する力 深夜特急ノート』沢木耕太郎

作家・沢木耕太郎が20代で体験した旅を紀行小説として描いた『深夜特急』は、バックパッカーのバイブルとも呼ばれ、多くの若者の旅の道しるべになった。この旅を振り返りながら、旅とは何か、人の心はなぜ旅へと向かうのか、など、旅に関する思いが読者の問いかけに応えるかたちで書かれた長編エッセイが本書。『深夜特急』は第1巻から第3巻まであり、それぞれ「第一便」「第二便」「第三便」と呼ばれており、本書は「最終便」と名付けられた。

案内者プロフィール

磯田和明。1980年東京都生まれ。建築家。伊東豊雄建築設計事務所にて12年間アジアを中心に国内外の建築設計に従事し、2018年独立。また本を携えて新しい旅に出たいと考えている。

旅する力 深夜特急ノート

書籍情報

『旅する力 深夜特急ノート』2008年11月発刊。
現在、新潮文庫として発売中。