選定者私物の本

案内文01

「久しぶりに会う友達のような顔をして」
ザ・リッツ・カールトン大阪元副総支配人・四方啓暉

選定者

『日日平安』山本周五郎

私が本の面白さに出会ったのは中学生の頃だったと思います。その本は尾崎士郎さんの『人生劇場』でした。当時、文庫本でした。最初は話が面白くて夢中になりかけたのですが、そもそもこの本は中学生が読んでは良いのかがわからず、親には内緒にしておきたいし、かといって徒歩での通学道には途中隠れて読めるようなところもなく、学校の昼休みに誰もいない教室の片隅みで読んだ覚えがあります。結局、女性の英語の先生に見つかったのですが、先生は表紙を見て「ふーん」と言っただけで怒られることもなく、こんな本を読んでるのといった顔をしただけで本を返してもらい、その後は安心して読むことが出来ました

九州の筑豊を舞台として自分で考え得ない出来事、想像も出来ないことが繰り広げられ、読むうちに本が面白く思え、ちょっと大人になったような気がしたものでした。

その後は高校・大学・社会人としての通学・通勤の車中での読書……本が無いとどうしてよいのか不安になるぐらいでした。興味のあるテーマに出会うと──例えばアメリカの探偵ものそして刑事もの、日米のハードボイルドと──ジャンルで選んだり、主人公や 作家で、例えば大藪春彦等を読みあさりました。酒やカクテル、車、銃、洋服などのブランドを、ジャズの曲名そしてプレイヤーも、名前を必死で覚えました。それらは現実には自分の身の回りにはないのに、あるような気にもなりました。


今から考えると何よりも良かったのが 本って面白いものだと思わせてくれたことだと思います。主人公の顔を、着ているものを、食べているもの、近所の住民、町の風景……勝手に想像するのが楽しかったですね。50年近く経た今も、本を読んで想像したそれらの名前を耳にすると、半分ぐらいはまだ憶えていて、当時を懐かしく思い出します。


そして今私の手の届く所に、特に高校生の時に夢中になった文庫本が久しぶりに会う友達の様な顔をして置かれています。本の題は『日日平安』(山本周五郎)です。

江戸時代の武士・町人など市井の人々の日常のさりげない生活や出来事を優しく暖かく描いた短編集です。

私の高校時代は、特に学生運動が盛んになり始めた時代でした。住まいが渋谷区代々木で、日々の生活の中で様々な事を目にし耳にしました。全ての若者が生き方を問われるような時代でした。これからどうしたらいいのか? 何が大切な事か、嫌でも考えさせられたような……その時出会ったのが周五郎でした。今思うと私は『日日平安』の中に答えを探していたような気がします。


今でも読書は楽しく良い物だという思いは変わりません。私の個性を想像力を育て築いてくれたものだと思っています。若い時、読書を通じ様々な知識、そして力を身に着ける事は将来にとって大切ではないかと思います。是非自分に合う本と出会い楽しんでください。


そして私はこれから読書とどのように付き合っていくのでしょうか? またなんだかゆっくり周五郎に戻りそうな気がし始めました。

あらすじ/『日日平安』山本周五郎

藩の騒動に巻き込まれた主人公の浪人が、職にありつくために知恵を尽くす。その手際の良さと悲哀を軽妙に描いたのが表題作『日日平安』。このほか、若いふたりの不器用な恋『鶴は帰りぬ』、死罪を命じられた藩士の心模様を描いた『城中の霜』など、さまざまな立場の主人公が与えられた運命のもとで懸命に生きる姿を温かく描写した11編の時代小説が収録されている。

案内者プロフィール

四方啓暉。1946年神戸生まれ。ホテル勤務ののち、阪神電鉄による西梅田再開発プロジェクトのホテル事業(ザ・リッツ・カールトン大阪)の担当責任者に任命される。ザ・リッツ・カールトン大阪開業とともに副総支配人に就任。大学教授を経て、現在「オフィス四方」の代表としてホスピタリティに関する講演を各地で行っている。

日日平安

書籍情報

『日日平安』(1940年『現代』〈講談社〉にて発表)。
現在、新潮文庫(新潮社)、時代小説文庫(角川春樹事務所)などから発売中。